JR篠山口駅前にて
昨日は仕事休みということもあって、早朝から自転車で遠乗りすることにしました。ロングツーリングもいよいよ解禁!ということで、一度行ってみたかった 『青垣峠』 と、その先にある生野銀山、竹田城跡見物がメインのメニューです。帰路は輪行で和田山から三田に戻ってくる予定なので輪行袋を積んだツーリングパッケージのケルビム号の出動です。こうして写真を見ると細いスチール車独特お細見のフレームも味がありますね♪
さて、今回の行程は距離にすると大したことはないけど、復帰明けのツーリングなので帰路は電車内で雑誌でも読んで寛ぎ気分の輪行で帰ってくるというお気楽モードです。日中の暑さも堪えるだろうし、まずはこんな感じで良いかな。
そして、青垣峠は噂に聞く限り、厳しい勾配の坂道が続く難関の峠らしく、ロードバイクに乗り慣れたローディでさえも足着きをせずにはいられないとのこと。この峠にチャレンジする訳ですが、暗峠、花山院、塩尾時といった名うての急勾配の坂を足着きせずに登ることができる私には大きな障壁とはならないはず・・・と思っていましたが。
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篠山城下町、「パンのプー」にて行動食に黒豆パンを買っていきました。ここの黒豆パンは生地がモチモチとしていて美味しいんですよね。通常1セット3個売りのところを1個売りにもしてくれたし。
さて、パンの補給も終えて、篠山市街から川代恐竜街道(兵庫県道77号篠山山南線)という篠山川沿いの谷筋を行く爽快な下り道を西進します。この恐竜の看板が良い雰囲気を醸し出してしますね。この川沿いの断崖から恐竜の化石が発掘されたことに由来しているようです。
篠山川の流れが織り成す渓谷の風景。この道を走っていると、冷気を含んだ風が夏の湿気を振り払うようにして時折吹き付けてきます。そう長い区間ではありませんが、未体験な方にはおすすめの道ですね。
恐竜街道を走り続けていくと赤レンガの建物がありますが、ここが恐竜の化石の発掘ポイントです。化石も凄いけど、この年季の入った建物も文化財ですね。ここから川の流れに下りた場所が発掘ポイントです。
川の流れの断崖にくっきりと地層が見られます。この古い地層から竜脚類の恐竜の骨の化石が見つかったらしいですよ。そしてなんと化石発見は2006年。つい最近の出来事だということに驚き!!
丹波竜の復元フィギュア。なかなか立派な恐竜が日本列島にも生息していたのですね。
恐竜の化石発掘現場も見たことだし、この後は一路青垣峠へ。柏原、氷上、青垣と丹波市の平野部をぐいぐいと進んで行きます。モクモクと湧いた分厚い雲と遠く路面に揺れる陽炎が夏のツーリングを盛り上げてくれます。そして、トップチューブの長いケルビム号は直進の安定感バッチリで、チューブレスタイヤの快適さも相まって気持ち良く走ってくれます。2月以降は全く乗らずでほったらかしだったのに、ケルビム号よ、ほんまありがとう!
そして、青垣峠も指呼の距離という場所で面白そうな山を発見。頂上に電波塔があるし、舗装路が続いているのかもしれないと思っていると次の看板に出会いました。
「岩屋山!!」聞いたことがある。ブロ友のさち駒さんだったかな、Finlandiaさんだったかな。舗装路が尾根から山頂にかけて続き、また別の尾根から下山できるという恰好のヒルクライムコースじゃないですか。これはぜひ登らなくてはの山ですね。今日のところはパスして次の機会のターゲットとします。
そして青垣峠の登り口に到着。いよいよここからがローディ泣かせの青垣峠。実際、どんなものかお手並み拝見ですね。重たいスチール車とツーリングパッケージですけど、絶対にシッティングのみで登り切ってやる、そんな覚悟で登りの途に着きました。
最初はやんわりと斜度も8%未満の道でのんびりと景色を楽しみながら走って行けます。夏の日差しが木々で遮られるのが嬉しいですね。
杉に挟まれた細い登坂路も険しくはなってきたものの、斜度は10%〜12%程度。ゆっくりと登るのには何の支障もない。正直、こんなモノなの?と疑念がよぎりました。
おっとと、斜度がじわりと高くなってきて常時12%以上で、しかもコーナーを曲がってもその先に見えるのは更に急そうな坂道。斜度25%を超えるような瞬間的超激坂はありませんが、じわりじわりと脚を削ってくるこの感覚・・・。
写真の通り急勾配が続くのですが、走りながら写真を撮っているだけまだ余裕があるというもの。この坂道の先、峠まで残るり数百メートルの勾配では写真を撮る余裕さえもなくなってくる。
暗峠や花山院は急勾配のインパクトは強いが登りに緩急があって激急坂の後には緩やかになるポイントがやって来る。そこで脚を休めることができます。しかし青垣峠の登りは違う。
ここの登りは斜度15%前後が間断なく続き、脚を休めるポイントが皆無。しかも距離が長いので、暑さと相まってじわりじわりと体力を削られていく。
峠の登り初めは余裕をこいていたけど、最後の最後になった頃には「ここまで来たらもう最後は意地だ!」「絶対にシッティングだけで登り切ってやる!」 という気合だけでバランスを崩さないようにジワリジワリと進んで行く。もう必死も必死。
そして残り数十メートルというところで峠を示す丹波市と朝来市の市境の標識が見えた。これが見えたら尽き果てようとしていた力が再び盛り返す。・・・そして到着。
峠に到着し、バイクをしっかり立て掛けてからペタンと脚を投げ出して座り込みました。
疲れた〜〜〜。TTではない登坂でここまで果てるのは久しぶりだ。
しばらく放心状態。
記念写真も疲労でぶれ気味。六甲も花山院も暗峠も終着地点付近は勾配が緩くなって休みながらゴールできるのに、ここは峠に近づけば近づくほど勾配が急になる鬼の峠。しっかり今日足着きなしで登り切れて良かったなぁ。
青垣峠を越えて、次の目標は生野銀山。ちょっと立ち寄るだけでなくしっかりと時間をかけて見学する予定。今日は走り込みツーリングじゃなくて観光ツーリングでもあるからね。そうそう青垣峠を下っていたらこんな施設があった。これって以前にFinlandiaさんのブログで見たことある。なるほど〜この道を走っていたのね。
青垣峠から生野銀山まではず〜〜っと下りの快走路。あの衝撃的な登りで受けた疲労のままに次の登りを走るのは無理。ずっと下りの道で助かった。川の淵で涼しげに遊ぶ人たちからも涼を貰います。ってここもFinlandiaさん撮影してたな。
生野ダムのダム湖「銀山湖」の畔にて。
久しぶりのダムカードをゲット!
さぁ、生野の町へ下りてきました。鉱山跡まではもう少し。腹減った・・・。着いたら何はともあれ食事だ。
生野銀山跡までの登り道が堪えたぁ。ハンガーノックも少しばかり入っていたのかも。生野銀山は明治から大正にかけて官製化されていた時期もあり、官製を示す菊花紋の入りの門柱が展示されていました。ここに来たのは高校生の時以来。日本史の授業で夏の自由研究のためにここを訪れたのでした。家の荷物をひっくり返すと当時の研究ノートが見つかるかも・・・。
飯、とにかく飯・・・。涼しいレストランに飛び込んでご当地名物の「銀山ハヤシライス@850」を戴きました。
まぁ何が「銀山」なんだかよく分かりませんでしたがデミグラスソースの味は濃厚でしっかり美味しいハヤシライスでした。
そしていよいよ坑道見学へ。涼し〜〜〜。気温は常時13℃に保たれているらしい。日差しを直射され続けてきた体には冷却がなによりのご馳走ですね。坑道内の一定に保たれた冷気を利用してワインセラーとして利用しているメーカーもありました。
坑内には銀山で採掘がされていた当時を再現する蝋人形たちが至るところに現れます。この人は金槌とノミでもって坑道を掘り進む江戸時代の炭鉱夫(下財と呼ばれていた)です。
生野銀山は昭和時代まで採掘が続いていました。この鉱石運搬用のトロッコは昭和時代に入ってから利用されていたものでしょう。
まるで蟻の巣の断面図ですが、江戸時代の坑道を断面化したものです。坑道を掘り進める人、採れた鉱石を運ぶ人、土砂を運ぶ人、地下水を排水する人、空気を鞴で送り込む人、鉱夫たちの作業を監督するお役人、色々な役割の人が狭い坑道の中でひしめき合っていたのですね。
そしてこちらは生野銀山が官製鉱山だった頃に中央政府から派遣されてきたお役人の官舎を再現した平屋です。ガイドのおじさんに捕まって色々な説明を矢継ぎ早に聞かされました(笑)。のんびりツーリングにはこんなこともアリでしょう。そのおじさんによると、生野銀山が活況の頃、大正から昭和にかけての時期、鉱夫の収入は日給月給で月300万円以上は貰っていたそうです。しかし、じん肺という鉱山で働く人特有の病に侵されやすく、多くの人が20後半から40代にかけてコロリと亡くなった。
あくまで、そのガイドのおじさんが言うことですからね。金は山ほど稼げるけど、それは命の短さと隣り合わせ。稼いだ金を惜しげもなく使っていくために生野の町は沸きに沸き、高価な家電製品や家財などは飛ぶように売れ、それはもう空前絶後の賑やかな時代があったそうです。
あとは江戸時代の話、大坂冬の陣において家康は講和の条件として大坂城の外堀と、講和の条件にはなかったとされる内堀まで埋め尽くしてしまう訳ですが、この時に大動員されたのが生野銀山で働く鉱夫たち。現大阪市中央区にある宗右衛門町の名は、この時の功績を称して生野出身の山口屋宗右衛門の名前が付けられたとのこと。
へぇ〜〜〜ですね。時間はたっぷりと取られてしまいましたが興味深い話をたくさん聞けました。
生野の町を辞し、円山川沿いの道を北上して、今度は「天空の城」として俄かに脚光を浴びるようになった竹田城の麓まで足を延ばしてみることに。
しばらく川沿いに走っていると前方に山の頂が妙に平らな山が視界に入ってきます。あの山を見た瞬間「あ、あれだ」と思いましたが、その直感は正解でした。
登山で登ると1時間弱くらいはかかりそうな山なので麓から見上げるのみです。この日は平日だったのと時間も遅かったせいかあまり観光客には出会えませんでした。竹田城のことは細々と書きませんが、こんな標高の高いところに建てられたお城って役に立つのか??というのが第一印象。でもこれだけ立派な石垣が築かれたということはそれなりの価値があったんだろうなと。
山城としては確かに高い標高にあると言えるが、山のとしての標高は400m弱で、地域の里山に毛が生えたような高さの山だ。この地域特有の雲海が見られなければ、標高400mくらいの山の眺望は恐らく400mくらいの山の眺望並みだ。山上に築かれた石垣や城郭跡に歴史的価値があるのは間違いないが、この山城跡を「天空の〜」や「日本のマチュピチュ」などと表現するのは自治体の取り組みとしては少しばかり煽りが過ぎるように思う。
ちなみに「天空の城ラピュタ」においてシータやパズーその他大勢の人たちが上陸を果たした時のラピュタの高度は諸説あるが、積乱雲の高度や森林限界からだいたい2000mから3000mとされる。マチュピチュは標高2500m弱の高山に築かれた古代都市遺跡群である・・・。
観光案内所で売っていたジグソーパズル。素晴らしい景観だが、普通のジグソーパズルのように見える。「世界一難しい」は言い過ぎでしょ。
そんなこんなで、JR和田山駅に到着です。時刻はまだ17時。夏の17時など自転車ツーリストにとってはまだまだこれからの時間帯でもある訳ですが、今回はこのあたりで締めとします。ロードバイクを輪行袋にしまう作業は久しぶりなのでずいぶんと手こずってしまった。
今回の記録
走行距離 : 142.85km
走行時間 : 7時間13分
平均時速 : 19.8km/h
獲得標高 : 944m
昨日は仕事休みということもあって、早朝から自転車で遠乗りすることにしました。ロングツーリングもいよいよ解禁!ということで、一度行ってみたかった 『青垣峠』 と、その先にある生野銀山、竹田城跡見物がメインのメニューです。帰路は輪行で和田山から三田に戻ってくる予定なので輪行袋を積んだツーリングパッケージのケルビム号の出動です。こうして写真を見ると細いスチール車独特お細見のフレームも味がありますね♪
さて、今回の行程は距離にすると大したことはないけど、復帰明けのツーリングなので帰路は電車内で雑誌でも読んで寛ぎ気分の輪行で帰ってくるというお気楽モードです。日中の暑さも堪えるだろうし、まずはこんな感じで良いかな。
そして、青垣峠は噂に聞く限り、厳しい勾配の坂道が続く難関の峠らしく、ロードバイクに乗り慣れたローディでさえも足着きをせずにはいられないとのこと。この峠にチャレンジする訳ですが、暗峠、花山院、塩尾時といった名うての急勾配の坂を足着きせずに登ることができる私には大きな障壁とはならないはず・・・と思っていましたが。
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篠山城下町、「パンのプー」にて行動食に黒豆パンを買っていきました。ここの黒豆パンは生地がモチモチとしていて美味しいんですよね。通常1セット3個売りのところを1個売りにもしてくれたし。
さて、パンの補給も終えて、篠山市街から川代恐竜街道(兵庫県道77号篠山山南線)という篠山川沿いの谷筋を行く爽快な下り道を西進します。この恐竜の看板が良い雰囲気を醸し出してしますね。この川沿いの断崖から恐竜の化石が発掘されたことに由来しているようです。
篠山川の流れが織り成す渓谷の風景。この道を走っていると、冷気を含んだ風が夏の湿気を振り払うようにして時折吹き付けてきます。そう長い区間ではありませんが、未体験な方にはおすすめの道ですね。
恐竜街道を走り続けていくと赤レンガの建物がありますが、ここが恐竜の化石の発掘ポイントです。化石も凄いけど、この年季の入った建物も文化財ですね。ここから川の流れに下りた場所が発掘ポイントです。
川の流れの断崖にくっきりと地層が見られます。この古い地層から竜脚類の恐竜の骨の化石が見つかったらしいですよ。そしてなんと化石発見は2006年。つい最近の出来事だということに驚き!!
丹波竜の復元フィギュア。なかなか立派な恐竜が日本列島にも生息していたのですね。
恐竜の化石発掘現場も見たことだし、この後は一路青垣峠へ。柏原、氷上、青垣と丹波市の平野部をぐいぐいと進んで行きます。モクモクと湧いた分厚い雲と遠く路面に揺れる陽炎が夏のツーリングを盛り上げてくれます。そして、トップチューブの長いケルビム号は直進の安定感バッチリで、チューブレスタイヤの快適さも相まって気持ち良く走ってくれます。2月以降は全く乗らずでほったらかしだったのに、ケルビム号よ、ほんまありがとう!
そして、青垣峠も指呼の距離という場所で面白そうな山を発見。頂上に電波塔があるし、舗装路が続いているのかもしれないと思っていると次の看板に出会いました。
「岩屋山!!」聞いたことがある。ブロ友のさち駒さんだったかな、Finlandiaさんだったかな。舗装路が尾根から山頂にかけて続き、また別の尾根から下山できるという恰好のヒルクライムコースじゃないですか。これはぜひ登らなくてはの山ですね。今日のところはパスして次の機会のターゲットとします。
そして青垣峠の登り口に到着。いよいよここからがローディ泣かせの青垣峠。実際、どんなものかお手並み拝見ですね。重たいスチール車とツーリングパッケージですけど、絶対にシッティングのみで登り切ってやる、そんな覚悟で登りの途に着きました。
最初はやんわりと斜度も8%未満の道でのんびりと景色を楽しみながら走って行けます。夏の日差しが木々で遮られるのが嬉しいですね。
杉に挟まれた細い登坂路も険しくはなってきたものの、斜度は10%〜12%程度。ゆっくりと登るのには何の支障もない。正直、こんなモノなの?と疑念がよぎりました。
おっとと、斜度がじわりと高くなってきて常時12%以上で、しかもコーナーを曲がってもその先に見えるのは更に急そうな坂道。斜度25%を超えるような瞬間的超激坂はありませんが、じわりじわりと脚を削ってくるこの感覚・・・。
写真の通り急勾配が続くのですが、走りながら写真を撮っているだけまだ余裕があるというもの。この坂道の先、峠まで残るり数百メートルの勾配では写真を撮る余裕さえもなくなってくる。
暗峠や花山院は急勾配のインパクトは強いが登りに緩急があって激急坂の後には緩やかになるポイントがやって来る。そこで脚を休めることができます。しかし青垣峠の登りは違う。
ここの登りは斜度15%前後が間断なく続き、脚を休めるポイントが皆無。しかも距離が長いので、暑さと相まってじわりじわりと体力を削られていく。
峠の登り初めは余裕をこいていたけど、最後の最後になった頃には「ここまで来たらもう最後は意地だ!」「絶対にシッティングだけで登り切ってやる!」 という気合だけでバランスを崩さないようにジワリジワリと進んで行く。もう必死も必死。
そして残り数十メートルというところで峠を示す丹波市と朝来市の市境の標識が見えた。これが見えたら尽き果てようとしていた力が再び盛り返す。・・・そして到着。
峠に到着し、バイクをしっかり立て掛けてからペタンと脚を投げ出して座り込みました。
疲れた〜〜〜。TTではない登坂でここまで果てるのは久しぶりだ。
しばらく放心状態。
記念写真も疲労でぶれ気味。六甲も花山院も暗峠も終着地点付近は勾配が緩くなって休みながらゴールできるのに、ここは峠に近づけば近づくほど勾配が急になる鬼の峠。しっかり今日足着きなしで登り切れて良かったなぁ。
青垣峠を越えて、次の目標は生野銀山。ちょっと立ち寄るだけでなくしっかりと時間をかけて見学する予定。今日は走り込みツーリングじゃなくて観光ツーリングでもあるからね。そうそう青垣峠を下っていたらこんな施設があった。これって以前にFinlandiaさんのブログで見たことある。なるほど〜この道を走っていたのね。
青垣峠から生野銀山まではず〜〜っと下りの快走路。あの衝撃的な登りで受けた疲労のままに次の登りを走るのは無理。ずっと下りの道で助かった。川の淵で涼しげに遊ぶ人たちからも涼を貰います。ってここもFinlandiaさん撮影してたな。
生野ダムのダム湖「銀山湖」の畔にて。
久しぶりのダムカードをゲット!
さぁ、生野の町へ下りてきました。鉱山跡まではもう少し。腹減った・・・。着いたら何はともあれ食事だ。
生野銀山跡までの登り道が堪えたぁ。ハンガーノックも少しばかり入っていたのかも。生野銀山は明治から大正にかけて官製化されていた時期もあり、官製を示す菊花紋の入りの門柱が展示されていました。ここに来たのは高校生の時以来。日本史の授業で夏の自由研究のためにここを訪れたのでした。家の荷物をひっくり返すと当時の研究ノートが見つかるかも・・・。
飯、とにかく飯・・・。涼しいレストランに飛び込んでご当地名物の「銀山ハヤシライス@850」を戴きました。
まぁ何が「銀山」なんだかよく分かりませんでしたがデミグラスソースの味は濃厚でしっかり美味しいハヤシライスでした。
そしていよいよ坑道見学へ。涼し〜〜〜。気温は常時13℃に保たれているらしい。日差しを直射され続けてきた体には冷却がなによりのご馳走ですね。坑道内の一定に保たれた冷気を利用してワインセラーとして利用しているメーカーもありました。
坑内には銀山で採掘がされていた当時を再現する蝋人形たちが至るところに現れます。この人は金槌とノミでもって坑道を掘り進む江戸時代の炭鉱夫(下財と呼ばれていた)です。
生野銀山は昭和時代まで採掘が続いていました。この鉱石運搬用のトロッコは昭和時代に入ってから利用されていたものでしょう。
まるで蟻の巣の断面図ですが、江戸時代の坑道を断面化したものです。坑道を掘り進める人、採れた鉱石を運ぶ人、土砂を運ぶ人、地下水を排水する人、空気を鞴で送り込む人、鉱夫たちの作業を監督するお役人、色々な役割の人が狭い坑道の中でひしめき合っていたのですね。
そしてこちらは生野銀山が官製鉱山だった頃に中央政府から派遣されてきたお役人の官舎を再現した平屋です。ガイドのおじさんに捕まって色々な説明を矢継ぎ早に聞かされました(笑)。のんびりツーリングにはこんなこともアリでしょう。そのおじさんによると、生野銀山が活況の頃、大正から昭和にかけての時期、鉱夫の収入は日給月給で月300万円以上は貰っていたそうです。しかし、じん肺という鉱山で働く人特有の病に侵されやすく、多くの人が20後半から40代にかけてコロリと亡くなった。
あくまで、そのガイドのおじさんが言うことですからね。金は山ほど稼げるけど、それは命の短さと隣り合わせ。稼いだ金を惜しげもなく使っていくために生野の町は沸きに沸き、高価な家電製品や家財などは飛ぶように売れ、それはもう空前絶後の賑やかな時代があったそうです。
あとは江戸時代の話、大坂冬の陣において家康は講和の条件として大坂城の外堀と、講和の条件にはなかったとされる内堀まで埋め尽くしてしまう訳ですが、この時に大動員されたのが生野銀山で働く鉱夫たち。現大阪市中央区にある宗右衛門町の名は、この時の功績を称して生野出身の山口屋宗右衛門の名前が付けられたとのこと。
へぇ〜〜〜ですね。時間はたっぷりと取られてしまいましたが興味深い話をたくさん聞けました。
生野の町を辞し、円山川沿いの道を北上して、今度は「天空の城」として俄かに脚光を浴びるようになった竹田城の麓まで足を延ばしてみることに。
しばらく川沿いに走っていると前方に山の頂が妙に平らな山が視界に入ってきます。あの山を見た瞬間「あ、あれだ」と思いましたが、その直感は正解でした。
登山で登ると1時間弱くらいはかかりそうな山なので麓から見上げるのみです。この日は平日だったのと時間も遅かったせいかあまり観光客には出会えませんでした。竹田城のことは細々と書きませんが、こんな標高の高いところに建てられたお城って役に立つのか??というのが第一印象。でもこれだけ立派な石垣が築かれたということはそれなりの価値があったんだろうなと。
山城としては確かに高い標高にあると言えるが、山のとしての標高は400m弱で、地域の里山に毛が生えたような高さの山だ。この地域特有の雲海が見られなければ、標高400mくらいの山の眺望は恐らく400mくらいの山の眺望並みだ。山上に築かれた石垣や城郭跡に歴史的価値があるのは間違いないが、この山城跡を「天空の〜」や「日本のマチュピチュ」などと表現するのは自治体の取り組みとしては少しばかり煽りが過ぎるように思う。
ちなみに「天空の城ラピュタ」においてシータやパズーその他大勢の人たちが上陸を果たした時のラピュタの高度は諸説あるが、積乱雲の高度や森林限界からだいたい2000mから3000mとされる。マチュピチュは標高2500m弱の高山に築かれた古代都市遺跡群である・・・。
観光案内所で売っていたジグソーパズル。素晴らしい景観だが、普通のジグソーパズルのように見える。「世界一難しい」は言い過ぎでしょ。
そんなこんなで、JR和田山駅に到着です。時刻はまだ17時。夏の17時など自転車ツーリストにとってはまだまだこれからの時間帯でもある訳ですが、今回はこのあたりで締めとします。ロードバイクを輪行袋にしまう作業は久しぶりなのでずいぶんと手こずってしまった。
今回の記録
走行距離 : 142.85km
走行時間 : 7時間13分
平均時速 : 19.8km/h
獲得標高 : 944m